Archive for 12月, 2006

2006年12月30日 06:12 pm

ケーキ

 チーズケーキ焼きました。

チーズケーキ

2006年12月24日 03:12 pm

準備

 買うつもりではなかったというのに、ワインを買ってしまった。はずみがついてしまい、花も買った。
 それで今は、オーブンでパンを焼いているところ。上手にできるかなぁ。

 ワインは、フレシネ・コルドン・ネグロというスパークリングワイン。シャンパーニュではなくて、カヴァです。
 花は、これはなんだろう、黄色い花。
 パンは、実は失敗しても良いように、別に買ってきてもいるので、大丈夫。買ってきたのは、くるみのパン。

 かぼちゃのスープを作って。肉を焼いて。あ、ワインがあるから、氷をたくさん用意しておかなくちゃね。

 あとは、好きな人が、訪ねてくるだけ。ふんだ。待ってなんか、いないよ、だ。

2006年12月23日 12:12 am

アロマテラピー

 今、焚いているのはマンダリン。手元の資料には、幼い頃のような、純真で無垢な自分を取り戻したいときに使うと良い、なんて書いてあります。眠る前に焚くと楽しい夢が見られるでしょう、とも。
 おやすみ。

アロマテラピー

2006年12月19日 10:12 pm

駅から歩いてる

 やあー、楽しかったなぁ。

2006年12月19日 09:12 pm

ライブの帰り

 最近わたしが惚れている男の人に、今日は会ってきました。
 会うと言ったって、言葉をかわすわけでもなく、ただ少し離れた場所から、歌い踊っているのを見たというだけですけどね。
 素敵な人でした。bkntmrgさんが、好きになってしまってもおかしくない、というような人。
 行って良かったな。
 行って良かった。素敵な時間でした。素敵な人だった。

2006年12月18日 12:12 am

おやすみ

 明日は、「会いたい」と、この何ヶ月か思っていた人に、会いに行くんです。えへへ。良いでしょ。
 うれしいな。
 
 家人が留守をするので、bkntmrgは、今日からしばらくは一人暮らしです。
 夕飯は湯豆腐でした。缶ビール、ちょっと飲みすぎた。
 それじゃ、おやすみなさい。

2006年12月17日 12:12 am

鉛筆で、ところどころ線が引いてあった(2006-06-29)

 図書館で、「モラル・ハラスメント ― 人を傷つけずにはいられない」という本を借りてきて読みました。とても興味深かったのですが……。

 鉛筆で、ところどころ線が引いてあるのを見つけて、しばし考え込みました。幼児の落書きというのではなく、ちゃんと内容を読んだ、大人の手によるものでした。何故そう思うかというと、線をひいている箇所は、本の要所をおさえていましたから。つまり、以前にその本を借りた人が、鉛筆で線を引きながら熱心に読んだ、ということですね。

 図書館から借りてきた本に、もしも落書きがあったら?? わたしは、実は結構な正義漢で、そして短気なので、たいていは腹をたてるのです。公共のものに落書きなんかしてー! と、まずは義憤を覚えるのですね。そして次には、「わたしが消しゴムで消しながら読もうかな…」ということを考えました。鉛筆で書かれており、消しゴムで片っ端から消していけば、跡もそれほど残らなさそうでしたので……。

 さて、しばし考えて、わたしはどうしたでしょうか。

 どうしたかというと、覚えた怒りは持続することなく、消しゴムを手に持つこともなく、ただ最後まで読み、そしてまた図書館に返却しました。

 モラル・ハラスメントの被害者というのは、とても気の毒ですね。モラ・ハラの、この”いやぁな感じ”は、わかるような気がするのです。この本に書いてある被害者のほうに、わたしは共感をして、感情移入をして、読んでいて胸が痛くなるようでした。

 それで、鉛筆でところどころ引いてあった線ですが……。

 この本を、鉛筆で線を引きながら読んだ人のことを、わたしは思ったのです。この本を読んで、線を引きたくなるほどに、感情を揺さぶられた人のことを。もしかしたらその人は、(ああ……。これはまさしく私のことだ。私のことが書かれてある……)と、堪らなくなって、鉛筆で線を引いたのではないのかな、と。(悪いのは私だと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。私は被害者だったのだ。しかも私は一人じゃない。私と同じような人が、他にもいるんだ……)

 もちろん、この手の想像というのは、妄想と言い換えるべきものであって、本気で断言しているわけではないのですよ。ただね、ただ、そういうことをわたしは思った、ということ。

 鉛筆で線を引いて読んだ見知らぬ誰かが、モラル・ハラスメントの、まさしく被害者であって、そしてその本を読んだことで、救われたような気持ちになったのかもしれないな、と。

 そんなことを思ったのでした。そして、そんなことを思ったら、鉛筆で書き込まれた線を、消せなかった。図書館には、無言で返却したのでした。

2006年12月17日 12:12 am

今月読んだ本のなかから、言及したくなったものを、思いついた順に。<一部抜粋>(2006-06-29)

ハイム ポトク『ゼブラ』
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 児童書です。短編集。これはとても良かったです。どれも良かったですが、特に二編目の「B.B.」が。
 本を読んで泣いてしまうという時には、いくつかパターンがありますよね。愛する人が亡くなる話や、自分を犠牲にしてまでも誰かを助けようとする人の話や、親子の絆を描いた話や……。まあ、そういう、涙に繋がる記号のような話・パターンが、いろいろとあります。
 だけどこの話、「B.B.」は、どう説明したら良いのか、よくわからないのです。話の最後のほうで、あっと不意をつかれるような、心の隙をつかれるような感じで、思わず泣けてしまいました。
 ”B.B.”というのは女の子の名前です。彼女が、人間の生(せい)のかなしみを、引き受けたこと。そこに心を揺さぶられた……のかなぁ。ぎりぎりのところで沈黙をして、他者のかなしみを自分のものとして、背負ったこと。それは、勇気によるものではないのですが……。どう説明したら良いのか、わからないですね。
 ここ何年かで読んだ小説のなかでは、一番良かった、という気がします。児童文学と、児童文学ではない小説と、すべて含めて、ここ何年かで一番良かったです。
 「ムーン」も良かったし、「イザベル」もなかなか良かった。そして、なかでも「B.B.」は、出来ればこのわたしが書きたかった。こういう小説を書きたい、なんて、久しぶりに思った、そういう作品でした。

リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』
リチャード・ペック『シカゴより好きな町』

 後者は前者の続編です。”こわい”のほうはニューベリー賞オナー受賞で、”好きな”のほうは、ニューベリー賞受賞作。
 これも読んで良かった。豪胆で風変わりな祖母の様子を、孫の二人(ジョーイとその妹のメアリ・アリス)が描く、という体裁の小説です。周りがびっくりしてしまうような祖母の言動の奧に、本当には何があったのかを、無理矢理に覗き込むのではなく、読者にも覗き込ませるのではなく、この兄と妹は(というか、本当は作者は、だけど)淡々と描いています。
 この祖母には、”ゆかし”と思わせる奧がある。その奥行きは、ひとりの人の心の奥行きであり、時の奥行き・歴史の奥行きです。
 良い小説でした。

 ところで、児童文学っていったいなんなの?という疑問を持ってもほったらかしにしている人や敬遠している人など、一度読んでみたらいいのにーと思います。児童文学って、要するに小説です。良い小説と、そうでない小説があるように、児童文学もそう。それで、この二つは良かったですよ。どちらか片方読むのなら、”好きな”のほうをおすすめする。

2006年12月17日 12:12 am

わたしならば、ビデオテープをあげたりしない(2006-06-30)

 たとえばわたしに子供がいて、その子の成長の記録や思い出を残すために撮影した、そういうビデオテープがあるとしましょう。そのビデオテープには、自分の子供の様子とともに、近所に住んでいる他の子供も一緒に映っている。自分の子供と近所の子供が、一緒に遊んでいるのが映っている、と。
 それで、後々になって、そのビデオに一緒に映っていた子供が、何らかの事情で亡くなってしまう。そういう状況が、自分の身に起こったとしましょう。その時、わたしはどうするか。
 そんな時、わたしは、決して*何もしない*でいるでしょう。ビデオテープのなかから、亡くなった子が映っている部分を抜き出し編集して、その家族に渡すというようなことは、とてもじゃないですが、しないでしょう。

 何故かというと、そういった行為は、相手の”悲しみ”に触れすぎる行為である、と信ずるからです。たとえ善意のつもりであっても、そういう行為、そういう”思い出の品”は、亡くなった子をおもう人の心をえぐるでしょう。
 *今もなお生きている子供*のほうを主役にしたビデオです。亡くなった子は、脇に映っている。その対比は、見るにつらいもののはずです。加えて、音声も捉えた動画というのは、きっと生前の子供の姿を生き生きと捉え*過ぎ*ているでしょう。そういうものを、子を亡くしてすぐの家族、母親や父親に見せるのは、とても酷だと思います。
 ではたとえば、動画ではなく静止画、それ程に生々しくないであろう写真ならばどうでしょう。その写真が、亡くなった子ひとりのみで写っているものである場合には、もしかしたらわたしは、家族にあげたかもしれません。しかしそれは、四十九日も過ぎていないような亡くなってすぐの時にではなく、もう少し時が経ってからです。
 ビデオテープも、亡くなった子のみが映っているシーンが多くある場合には、その部分だけを切り取って編集をして、そっと渡すということもあるかもしれません。しかしそれも、時が悲しみを癒し始めたかもしれない、一年や二年や、いやもっと経ってからですね。もしもあげるとするならば、何年も何年も経った後にです。

 これは、秋田で起こった男児殺害事件について、容疑者が逮捕されるずっと前に、わたしが考えたことです。
 亡くなった娘が映っているビデオテープを、四十九日も済まさぬような時期に、その母親に手渡した人がいるということ。そこに、わたしは驚いたのでした。ビデオテープを手渡した側の、この立ち入り方は尋常ではない。ひとの心に立ち入り過ぎる。子を亡くした母親の、悲しみに触れすぎている。

 それで……。それでなにかというと、別になんでもない。この話はおしまいです。ここから、別の何かを言いたいのではなく、ただそういうことを思った、ということです。

2006年12月17日 12:12 am

石を投げる(2006-08-03)

 娼婦に石を投げる人たちのことを、ふと思った。*1
 彼らもまた、誰かと繋がりたいのだ。あたたかな気持ちや手のぬくもりでではなく、石で。それとも侮蔑の言葉で。
 石は硬く、言葉は尖り、それでも彼らはひとりの人を前にして、無関心ではなかったのだ。あてもない方向へと、苛立ちをただ発散するように、石を投げたのでもない。彼女に投げたのだ。彼女に当てたかったのだ。自分の思いを、彼女に見せたかったのだ。傷付けたいという自分の気持ちを、彼女に受け取らせようとしたのだ。

  ◆

 風俗嬢として働いている時にHIVに感染し、そして発症したという或る若い女性のブログを見た。そしてそのブログへの反響を、様々な場所で、そう少なくない量、目にした。彼女に対して、ひどい言葉を投げつけている多くの匿名の人々や、それとも堂々として名らしきものも添え周囲に見えるように石を投げている人のことも見た。
 それでわたしは今、風呂上がりの缶ビールを飲んで、ぼんやりしてこれを書いていて、ひとつのことを感じるに至り、更にぼんやりとしているのだった。
 ああ、こんなにも、ひとは誰かと繋がりたいのだ。
 誰かに言葉を投げかけること。自分の言葉を誰かに届かせたいと思うこと。侮蔑や軽蔑や嘲笑や、憎しみというほどの強い負の気持ちの中にいてもなお、ひとというのは、誰かと繋がりたいのだ。匿名であってもそうでなくても、彼らは沈黙したまま通り過ぎることは出来なかったのだ。自分の言葉を、受け取らせたかったのだ。それが石でも、ひどい言葉でも、彼女に、それを当てたかった。傷付けたいと放った自分の石が、彼女に当たったのかどうかを、彼らはじっとりと見ていたはずだ。彼女に触れる一瞬、繋がる一瞬を、彼らは血眼で。

  1. 姦通の罪をおかした女性を糾弾する人々に対し、キリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったとされています。娼婦に石を投げる人、というのは、ここからきた、わたしの連想・想像です。 []

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