Archive for the '思うこと' Category

2009年07月28日 11:29 pm

すすすす

本当の本当に好きな人に気持ちを伝えるとき、
ふるえずには、いられないのでした。
好きと告げることの、その重みを、自身で知っているから。
 
  ★
 

 
聴いていると、
じれったさに、なんだか可笑しくなってしまったり、
うれしくなって、すっかりほほえんでしまっていたり、
がんばれーと、わたしも応援したくなってしまっていたり。
そして、たまに、泣きそうになります。

2008年10月10日 12:35 am

まし

「沈黙よりも美しい言葉」
というのはどういう言葉かというと、
手のすぐ届くところのものならたとえば、
ごめんね、とか、
大好き、とか、
おやすみ、とか。
もう少しながい言葉なら、
今日はあの人を見られてうれしかったな、とか。

わたしが思う詩というのは
「沈黙よりも美しい」ものでありたいのですが、
そういうものはなかなか書けなくて、
だからいつもは、
「黙りこくっているよりは少しはましかなぁ」というくらいのところを
越えるべき線にして、
ウェブログの更新をしている
というか、
したいなぁと
思っています。

でもこれもまた、
それほど上手に越えてはいない
線なのではないかなぁと
思ったりしています。

2008年09月22日 09:29 pm

わたしの好きな公園

 見知った場所で殺人事件が起こるのは今回で二度目だ。
 一度目も二度目も似た様態だ。二件とも被害者は幼い子で、遺体が発見されたのは公園の公衆トイレ、そしてどちらも実の親が犯人だった。一度目の犯人は被害者の実の父親、二度目は、今日母親が逮捕された。

 わたしの好きなあの公園が全国ニュースで取り上げられるのは、今回がおそらく初めてであったと思う。
 海があり山があり原っぱがあり、遊具や水飲み場、トイレがあり。みなが憩う良い場所なのだ。ひろびろとした良い場所だ。
 むごいことだと思う。当たり前だが、こういうことは、誰ひとりとしてしあわせにはならないのだ。亡くなった子も、周囲の人間も、あの公園を利用する人も、そして犯行に及んでしまったらしい母親も。

 わたしの書いたある詩のなかにこの公園が出てくる。今でもわたしの散歩コースである。恋人を案内し二人で歩いたこともあり、それも最近のことだった。

 子の母親があの公園をその場所に選んだこと。子をあやめることとあの公園とが、彼女のなかで重なった瞬間のことを、考える。彼女にとって、あの公園はどういう場所だったのだろう。わたしはほんの少しだけ、考えてしまう。

2007年10月01日 09:10 pm

時間旅行ができるなら

 好きな人の、子どもの頃を見てみたいなぁ、なんて。そういうことを思うのは、わたしが女性だからかな。

 たとえば終業式を終えて、さあ明日から夏休みという日の午後。
 海に行って、ふねを作って遊んだのなら、わたしはその時の海辺にゆきたい。小学生の彼の人を見てみたい。岩陰に隠れて、潮風に紛れて、遠くから。

 暗くなってから、ひとりで散歩をしたのなら、その夜にゆきたい。見上げる星をさえぎらないようにして、ひっそり、風にのって、中学生の彼の人の横顔を。

 時間旅行が、もし出来るなら。そして、わたしに好きな誰かがいるなら。
 その人が大人になる少し前までの間、いつでも遠くから、少しだけ、覗いてみたい。会いに行きたい。大好きな人の子どもの頃に。

2007年09月07日 11:09 pm

赤面

もともとわたくしという人は、
何をするにしても、ああ、恥ずかしいよう、
と心で思っている人なのでした。

でも恥ずかしがっている様は、
あまり外部には出さないように、努めていたりします。

程度問題だとは思うのですけどもね、でも
恥ずかしがっている様というのは、
たいてい、ちょっと見苦しくて、
見せつけられたほうだって、対応に困っちゃいますもんね。

だから、心穏やかなふうにして、
「恥ずかしがりつつ堂々と。臆することなく出来れば慎ましく」
というようなことを、
いつも思っていたりします。

なーんて書き綴りつつ、
あああ、ほんっと、わたし、気取っているよなぁ、
ほんっと、すかしてるよなぁ、
と、やっぱり恥ずかしがっていたりしてるわけなのですが、
でもいつもは、顔色を変えず、へっちゃらのふりで、
静かにしているというわけなのですよね。

もうね。でも。
いつだって、赤面しきりであったりします。

2007年08月23日 02:08 am

枕をぎゅーと抱きしめて

誰もいない部屋のなかで、布団のうえで、枕をぎゅーと抱きしめてね。
そんな、いつの時にも、どんな場所にもいるような、ありふれた、わたしは普通の人です。

布団のうえにすわり、枕を抱きしめて、ね。
ほんの少しの言葉から、よろこんでたり、かなしがったり。
勝手にひとり焦っていたり。明日を不安に思っていたり。

会いたい人がいるしあわせに、思わず目を閉じていたり。
恋することのさみしさに、心細くて、震えていたり。

たとえばね、そんな感じ。わたしはありふれた、普通の人です。

2007年07月22日 12:07 am

河合隼雄先生

 河合隼雄さんが亡くなられました。2007年7月19日。脳梗塞。七十九歳。 

 河合先生の言葉は、わたしの心に、いつもしっくりきました。河合先生の著書を、わたしは追いかけて読みました。
 誰にもわかりやすい言葉で、本当のことを語る人。誰のことをも傷つけないような冗談を、いつでも言っている人。人間に対するあたたかみと、同時に、どこかでいつも強烈に醒めている人。河合先生のことが、わたしは好きでした。 

 いつかお会いしたかった。言葉はたとえ交わさなくっても、それでもいいのです。少し離れた場所から、お姿拝見したかった。河合先生の気配、佇まい、輪郭を、わたしはいつか、この目にしたかった。 

 入院中ベッドのなかで、先生はどんなことを考えたでしょう。どんな夢を見たんでしょう。

 河合先生、お疲れ様でした。先生、ありがとうございました。

2007年07月06日 08:07 pm

坂井泉水さん / ”永遠”のこと

 ZARD の坂井泉水さんが亡くなったのは、5月27日のことだそうです。もう40日くらい前のことなのですね。

 
 ZARD の曲は、ああこの歌知ってる聞いたことある、というものが多いのですが、なかでも、わたしにはただひとつだけ、ただワンフレーズだけ、ふと思い出し、歌っているものがあります。時々ふと思い出し、くちずさんでいるのです。

君と僕との間に 永遠は見えるのかな

 「永遠」という曲のサビの部分です。全体の歌詞は知りません。
 
   ◆
 
 永遠という言葉は、わかるようなわからないような、いや、やっぱりわからないよな、という言葉です。無限という言葉なんかと、同じような感じで。
 しかしわたしは或るひとつの結論を持っていて、それは、永遠というのは、一瞬のことなのだ、ということ。

 たとえば、出会いの瞬間のことです。
 出会いとは、同じ空間に初めて居合わせた、というものを今は指してはいません。
 出会いというのは、心が通じ合った瞬間のこと。私の気持ちをあなたが理解し、受け止める。そして私は、自分の気持ちをあなたが知って、受け止めてくれたのだと気付いている。そういう瞬間です。
 あれが、永遠ではないだろうか。

 本や映画との出会いや、自分の心のなかだけで得た出会い、誰かとのではなくて誰かの言葉との出会いなどなど、一方的なものもあるだろうと思いますから、説明が決して足りてはいないのですが、ここは最小限にします。つまり、ただの一例です。

 目があった瞬間です。自分の存在と或る一人の他者の存在が、静かにはっきりと対峙したときのこと。そしてそれは、冷たい瞬間ではありません。微かであれ熱を持った、信頼のやり取りの瞬間のことです。
 
   ◆
 

君と僕との間に 永遠は見えるのかな

 大好きな人はいますか?
 その人と、いつ会いたくなりますか? 朝も昼も夜もですか?

 永遠が、もしまだなら、見えるといいですね。
 
   ◆
 
 入院していたときに、わたしもまた早起きで、扉が開かれる時刻になるとすぐに靴に履き替えて、お気に入りの場所まで歩きました。
 待宵草が花をつけて、風に揺れている場所でした。その場所で、毎朝、小さな声で歌をうたいました。

 坂井さんが、亡くなってしまったその場所で、わたしと同じように早起きして、大好きな景色を眺め、歌をくちずさんでいたのかなと思ったら、突如として、彼女をちかしく思う自分になっていました。

2007年04月04日 01:04 am

勝手なこと / チョン・ダビンさんのこと

 韓国の女優、チョン・ダビンさんが亡くなったというニュースは、新聞で見て知りました。朝から、えーっ! と大きな声を出しました。
 亡くなったのは、2007年の2月10日。自殺。首を吊ったのだそう。享年26。
 
   ◆
 
 チョン・ダビンさんをわたしが知ったのは、『屋根部屋のネコ』というドラマでした。そして、そのドラマでしかわたしは彼女のことを知りません。

 
 『屋根部屋のネコ』というのは、チョン・ダビンさんとキム・レウォンさんが主役のラブコメディです。
 良質なドラマです。本当によく出来ている。「おすすめの韓国のドラマは?」ともし誰かから訊ねられるなら、わたしは迷わずこのドラマをあげるのです。

 (以下、ネタばれになる文章を綴ります。気になる人は、読まないようになさってください。)

 
 チョン・ダビンさんが演じたのは、ナム・ジョンウンという女性です。ジョンウンというのは、器量も良くない、学歴もない、金もない。しかも職もない、就職浪人3年目、という設定の女性です。不器用で、だけども、健気で努力家で働き者。
 キム・レウォンさんが演じるのは、イ・ギョンミン。お調子者でボンボンで、ハンサムで成績優秀な法科の大学生。ギャンブルで借金をつくるような、ちゃらちゃらした若者です。
 で、この二人は成り行きで、同棲をすることになります。

 ジョンウンは、ギョンミンのことを好きになる。だけども、ギョンミンは他の女性に恋をしているのですね。実は、本当は、ギョンミンもジョンウンのことを好きらしいのですが、それに本人が気づくのは、ずっとずっと後です。

 ジョンウンは、ギョンミンにさんざ振り回されます。また、生活の重みがずしりとのしかかるのは、いつもジョンウンの肩にです。お調子者のギョンミンは、気を持たせておきながらもジョンウンとの約束をすっぽかしたり、他の女性とのデート費用のために生活費を勝手に使い込んだりで、さんざジョンウンを苦しめます。だけども、それでも、ジョンウンはギョンミンに尽くすのですね。

 他の部分では、まったく報われないばかりでもないのです。ジョンウンは、最初はアルバイトとして雇われた会社で認められ、遅々としてはいますがキャリアアップしていきます。また、恋するばかりでなく、恋されることも経験します。

 惚れた相手のギョンミンに健気に尽くしながらも、苦しめられ続けたジョンウンは、しかしある時、彼を拒絶します。離れることを決意します。
 …………。

 
 どろどろの愛憎劇も、白血病も失明も出てきません。
 健気なジョンウンと、鈍感でお調子者のギョンミンの、どたばたラブコメディです。
 笑いと、切なさと、どきどきと。そして感動とが味わえる、本当に良く出来たドラマです。

 ドラマの最終回の、最後のシーン。わたしはしみじみと「いいドラマだったなぁ」と思いました。あれだけ駄目だったギョンミンが、本当に大きく見えたこと。ジョンウンが、本当に、素敵な女性に見えたこと。
 (ドラマのネタばれは、この辺りまで。)
 
   ◆
 
 チョン・ダビンさんの訃報を聞いて。

 実際に涙が出るわけではないのです。
 ただわたしは、あるひとつのドラマを楽しく観たというだけです。チョン・ダビンさんの他の出演作を観てはいませんし、会ったこともない。彼女になにか辛いことがあったときにも、わたしは彼女の何の力にもなれてはいませんし、彼女が『屋根部屋のネコ』でのイメージばかりを求められることを、女優として心地よく思っていなかったということを知ってさえいるのです。
 だから、わたしは勝手なことを言ってはいけない。

 ただ、彼女の死を、ふと思い出すのです。そんな心の領域があることに、わたしは気付くのです。心のどこかでふと思い出し、わたしは泣いている。彼女の自死のことを。
 あの『屋根部屋のネコ』の、あのやさしく健気で強かったジョンウンを演じた、あのチョン・ダビンさんは、自殺なんてしたら駄目だ。

 無責任で勝手なことを言っていると、知ってはいるのです。勝手なことを言ってはいけないと、わたしは知ってはいるのですが。

2006年12月17日 12:12 am

わたしならば、ビデオテープをあげたりしない(2006-06-30)

 たとえばわたしに子供がいて、その子の成長の記録や思い出を残すために撮影した、そういうビデオテープがあるとしましょう。そのビデオテープには、自分の子供の様子とともに、近所に住んでいる他の子供も一緒に映っている。自分の子供と近所の子供が、一緒に遊んでいるのが映っている、と。
 それで、後々になって、そのビデオに一緒に映っていた子供が、何らかの事情で亡くなってしまう。そういう状況が、自分の身に起こったとしましょう。その時、わたしはどうするか。
 そんな時、わたしは、決して*何もしない*でいるでしょう。ビデオテープのなかから、亡くなった子が映っている部分を抜き出し編集して、その家族に渡すというようなことは、とてもじゃないですが、しないでしょう。

 何故かというと、そういった行為は、相手の”悲しみ”に触れすぎる行為である、と信ずるからです。たとえ善意のつもりであっても、そういう行為、そういう”思い出の品”は、亡くなった子をおもう人の心をえぐるでしょう。
 *今もなお生きている子供*のほうを主役にしたビデオです。亡くなった子は、脇に映っている。その対比は、見るにつらいもののはずです。加えて、音声も捉えた動画というのは、きっと生前の子供の姿を生き生きと捉え*過ぎ*ているでしょう。そういうものを、子を亡くしてすぐの家族、母親や父親に見せるのは、とても酷だと思います。
 ではたとえば、動画ではなく静止画、それ程に生々しくないであろう写真ならばどうでしょう。その写真が、亡くなった子ひとりのみで写っているものである場合には、もしかしたらわたしは、家族にあげたかもしれません。しかしそれは、四十九日も過ぎていないような亡くなってすぐの時にではなく、もう少し時が経ってからです。
 ビデオテープも、亡くなった子のみが映っているシーンが多くある場合には、その部分だけを切り取って編集をして、そっと渡すということもあるかもしれません。しかしそれも、時が悲しみを癒し始めたかもしれない、一年や二年や、いやもっと経ってからですね。もしもあげるとするならば、何年も何年も経った後にです。

 これは、秋田で起こった男児殺害事件について、容疑者が逮捕されるずっと前に、わたしが考えたことです。
 亡くなった娘が映っているビデオテープを、四十九日も済まさぬような時期に、その母親に手渡した人がいるということ。そこに、わたしは驚いたのでした。ビデオテープを手渡した側の、この立ち入り方は尋常ではない。ひとの心に立ち入り過ぎる。子を亡くした母親の、悲しみに触れすぎている。

 それで……。それでなにかというと、別になんでもない。この話はおしまいです。ここから、別の何かを言いたいのではなく、ただそういうことを思った、ということです。

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