Archive for the '過去ログ' Category

2007年04月01日 11:04 pm

メモ

  • 昨年末に、日記の多くを削除しました。その中から、いくつかの文章は”log”というカテゴリで括り、転載してあります。
  • ある一貫した気分によって、日記の文章の取捨選択をしたのですが、どのような気分であったかは、もうあまり思い出せません。はっきりと覚えているのは、ウイスキーの水割りをごぶごぶ飲みながら作業をしたということだけ。
  • 記事もろともに、いただいたコメントも削除して、もう手元にも残していません。心の中に残しています。

2006年12月17日 12:12 am

わたしならば、ビデオテープをあげたりしない(2006-06-30)

 たとえばわたしに子供がいて、その子の成長の記録や思い出を残すために撮影した、そういうビデオテープがあるとしましょう。そのビデオテープには、自分の子供の様子とともに、近所に住んでいる他の子供も一緒に映っている。自分の子供と近所の子供が、一緒に遊んでいるのが映っている、と。
 それで、後々になって、そのビデオに一緒に映っていた子供が、何らかの事情で亡くなってしまう。そういう状況が、自分の身に起こったとしましょう。その時、わたしはどうするか。
 そんな時、わたしは、決して*何もしない*でいるでしょう。ビデオテープのなかから、亡くなった子が映っている部分を抜き出し編集して、その家族に渡すというようなことは、とてもじゃないですが、しないでしょう。

 何故かというと、そういった行為は、相手の”悲しみ”に触れすぎる行為である、と信ずるからです。たとえ善意のつもりであっても、そういう行為、そういう”思い出の品”は、亡くなった子をおもう人の心をえぐるでしょう。
 *今もなお生きている子供*のほうを主役にしたビデオです。亡くなった子は、脇に映っている。その対比は、見るにつらいもののはずです。加えて、音声も捉えた動画というのは、きっと生前の子供の姿を生き生きと捉え*過ぎ*ているでしょう。そういうものを、子を亡くしてすぐの家族、母親や父親に見せるのは、とても酷だと思います。
 ではたとえば、動画ではなく静止画、それ程に生々しくないであろう写真ならばどうでしょう。その写真が、亡くなった子ひとりのみで写っているものである場合には、もしかしたらわたしは、家族にあげたかもしれません。しかしそれは、四十九日も過ぎていないような亡くなってすぐの時にではなく、もう少し時が経ってからです。
 ビデオテープも、亡くなった子のみが映っているシーンが多くある場合には、その部分だけを切り取って編集をして、そっと渡すということもあるかもしれません。しかしそれも、時が悲しみを癒し始めたかもしれない、一年や二年や、いやもっと経ってからですね。もしもあげるとするならば、何年も何年も経った後にです。

 これは、秋田で起こった男児殺害事件について、容疑者が逮捕されるずっと前に、わたしが考えたことです。
 亡くなった娘が映っているビデオテープを、四十九日も済まさぬような時期に、その母親に手渡した人がいるということ。そこに、わたしは驚いたのでした。ビデオテープを手渡した側の、この立ち入り方は尋常ではない。ひとの心に立ち入り過ぎる。子を亡くした母親の、悲しみに触れすぎている。

 それで……。それでなにかというと、別になんでもない。この話はおしまいです。ここから、別の何かを言いたいのではなく、ただそういうことを思った、ということです。

2006年12月17日 12:12 am

鉛筆で、ところどころ線が引いてあった(2006-06-29)

 図書館で、「モラル・ハラスメント ― 人を傷つけずにはいられない」という本を借りてきて読みました。とても興味深かったのですが……。

 鉛筆で、ところどころ線が引いてあるのを見つけて、しばし考え込みました。幼児の落書きというのではなく、ちゃんと内容を読んだ、大人の手によるものでした。何故そう思うかというと、線をひいている箇所は、本の要所をおさえていましたから。つまり、以前にその本を借りた人が、鉛筆で線を引きながら熱心に読んだ、ということですね。

 図書館から借りてきた本に、もしも落書きがあったら?? わたしは、実は結構な正義漢で、そして短気なので、たいていは腹をたてるのです。公共のものに落書きなんかしてー! と、まずは義憤を覚えるのですね。そして次には、「わたしが消しゴムで消しながら読もうかな…」ということを考えました。鉛筆で書かれており、消しゴムで片っ端から消していけば、跡もそれほど残らなさそうでしたので……。

 さて、しばし考えて、わたしはどうしたでしょうか。

 どうしたかというと、覚えた怒りは持続することなく、消しゴムを手に持つこともなく、ただ最後まで読み、そしてまた図書館に返却しました。

 モラル・ハラスメントの被害者というのは、とても気の毒ですね。モラ・ハラの、この”いやぁな感じ”は、わかるような気がするのです。この本に書いてある被害者のほうに、わたしは共感をして、感情移入をして、読んでいて胸が痛くなるようでした。

 それで、鉛筆でところどころ引いてあった線ですが……。

 この本を、鉛筆で線を引きながら読んだ人のことを、わたしは思ったのです。この本を読んで、線を引きたくなるほどに、感情を揺さぶられた人のことを。もしかしたらその人は、(ああ……。これはまさしく私のことだ。私のことが書かれてある……)と、堪らなくなって、鉛筆で線を引いたのではないのかな、と。(悪いのは私だと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。私は被害者だったのだ。しかも私は一人じゃない。私と同じような人が、他にもいるんだ……)

 もちろん、この手の想像というのは、妄想と言い換えるべきものであって、本気で断言しているわけではないのですよ。ただね、ただ、そういうことをわたしは思った、ということ。

 鉛筆で線を引いて読んだ見知らぬ誰かが、モラル・ハラスメントの、まさしく被害者であって、そしてその本を読んだことで、救われたような気持ちになったのかもしれないな、と。

 そんなことを思ったのでした。そして、そんなことを思ったら、鉛筆で書き込まれた線を、消せなかった。図書館には、無言で返却したのでした。

2006年12月17日 12:12 am

石を投げる(2006-08-03)

 娼婦に石を投げる人たちのことを、ふと思った。*1
 彼らもまた、誰かと繋がりたいのだ。あたたかな気持ちや手のぬくもりでではなく、石で。それとも侮蔑の言葉で。
 石は硬く、言葉は尖り、それでも彼らはひとりの人を前にして、無関心ではなかったのだ。あてもない方向へと、苛立ちをただ発散するように、石を投げたのでもない。彼女に投げたのだ。彼女に当てたかったのだ。自分の思いを、彼女に見せたかったのだ。傷付けたいという自分の気持ちを、彼女に受け取らせようとしたのだ。

  ◆

 風俗嬢として働いている時にHIVに感染し、そして発症したという或る若い女性のブログを見た。そしてそのブログへの反響を、様々な場所で、そう少なくない量、目にした。彼女に対して、ひどい言葉を投げつけている多くの匿名の人々や、それとも堂々として名らしきものも添え周囲に見えるように石を投げている人のことも見た。
 それでわたしは今、風呂上がりの缶ビールを飲んで、ぼんやりしてこれを書いていて、ひとつのことを感じるに至り、更にぼんやりとしているのだった。
 ああ、こんなにも、ひとは誰かと繋がりたいのだ。
 誰かに言葉を投げかけること。自分の言葉を誰かに届かせたいと思うこと。侮蔑や軽蔑や嘲笑や、憎しみというほどの強い負の気持ちの中にいてもなお、ひとというのは、誰かと繋がりたいのだ。匿名であってもそうでなくても、彼らは沈黙したまま通り過ぎることは出来なかったのだ。自分の言葉を、受け取らせたかったのだ。それが石でも、ひどい言葉でも、彼女に、それを当てたかった。傷付けたいと放った自分の石が、彼女に当たったのかどうかを、彼らはじっとりと見ていたはずだ。彼女に触れる一瞬、繋がる一瞬を、彼らは血眼で。

  1. 姦通の罪をおかした女性を糾弾する人々に対し、キリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったとされています。娼婦に石を投げる人、というのは、ここからきた、わたしの連想・想像です。 []

2006年12月17日 12:12 am

しあわせとふしあわせ(2006-08-03)

 しあわせも、ふしあわせも、縁によるものだと思う。今あなたが殊更にしあわせを思うのも、今わたしが殊更にふしあわせを思うのも、そう大きな差はない。幸も不幸も、人間という大きなものの、その一形態に過ぎない。ある一つの状態だ、と言ってもいい。
 今ふしあわせを感じている人は、もしかしたら感謝の念が足らないだとか、視野がせまくなっているとか、人としての未熟さがそうさせているということなのかもしれない。しかし、そうではない場合だって、あるのではないだろうか。あなたが今しあわせを感じ、声高に語ることができているのは、今ふしあわせを感じている人が得た縁には、出くわしていないから、ではないだろうか。
 あなたのしあわせは、たとえば、愛する人を理不尽なことで突然に失った、その直後*ではない*からだ。食べるものがある。眠る場所がある。たとえばそれがしあわせではない瞬間、そのしあわせを感じたくないという瞬間も、これはたとえばの話だが、何かの縁によっては起こり得るのだと思う。あなたが今しあわせを感じているのは、ひととしての到達度の高さとは、関わっていない場合もある。 

 少し言いたいような気がして、書いた文章です。自分のためのメモという程度の、書き足りていない文章ですが……。

 殊更にしあわせばかりを語る人へ。

2006年12月17日 12:12 am

何でも見てやろう(2006-09-16)

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 以前から気になっていた小田実『何でも見てやろう』を古本屋で見つけ、105円で買ってきた。それが二週間ほど前のことで、買ってきたその日の夜から読み始めているというのに、まだ読み終わらない。そう分厚い本ではないし、つまらない本だというのでもない。読み終わるのが勿体ないなどと思って、ちびちびと読むほどにおもしろいかというと、そういうことでもない。うーん。いつ、読み終わるんだろう。まあ、いいけど。

外国へ行って、いや、べつに行かなくったってよろしい、この日本国のことでもよい、めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。ひとつの社会というやつは、どこだって、美術館だけでできあがっているのでもなければ、どこへ言っても共同便所ばかりというようなこともないのである。美術館もあれば共同便所もあり、山の手もあればスラム街もあり、国会議事堂もあればキチガイ病院もあり、美人もいればシワクチャの婆ちゃんもおり、総理大臣もいればオコモさんもいるのである。

 とにかく、私は「何でも見てやろう」と思った。国会議事堂から刑務所からスラム街から金持ち街から豪華ホテルから簡易宿泊所からカテドラルから広告塔から何から何まで、そしてまた、コーヒーの国、ビールの国、ブドー酒の国、チョコレートの国、紅茶の国、可能なかぎりのさまざまの国、さまざまの社会、そこに済み、うごめくさまざまの人間、それらすべてを見てやろう、私は誇大妄想教あるいはルネサンス人である私にふさわしく、そんなふうに考えたのである。

 これは、本のはじめのほうに出てきた文章。ながながと引用したのは、この部分が、わたしの姿勢と同じであると思ったからだ。

 上品なものばかりではなく、下品なものばかりでもない。中間だけでもない。深いところも、浅いところも、真ん中も、ひろく、すべてを見渡せるほうがいい。すべての音と風景とを、掬うことのできる心であるほうがいい。感性の芯の部分は、どの方向へも偏らずに、わたしも何でも見てみたい。*1

 まだ全部を読んではいないので、これからまた、ちびちびと読む。

  1. といっても、これは、好奇心にまかせて危険な世界にだってどんどん足を踏み込んでいろんなものを見てみたい、というようなことを言ってはいないので、つまらぬ心配や説教は無用です。無用ですよーだ。>某氏 []

2006年12月17日 12:12 am

高速バスのなか(2006-10-14)

 バスのなかで、昨夜作っておいたサンドイッチを食べました。
 自分が作ったタマゴサンドが、一番おいしいな。他のものはともかくとして、タマゴサンドは、わたしが作るものが一番おいしい。
 こういう”自給自足”は、なかなかいいですね。
 食べたら眠くなりました。
 外はたいへんに良い天気で、しっかりカーテンを閉めておかないと、ひどく日焼けをしてしまいそうです。

2006年12月17日 12:12 am

占いのページ(2006-12-09)

 雑誌をぱらぱらとめくっていたら、占いのページが。それで、わたしの来年の運勢の欄に、こうありました。
 「群衆の中のひとりとなって、黙々と働き、励むのが吉」
 顔を、思わずあげました。そう。そういうことが、吉でしょう。いついつでも、誰にとっても。

2006年12月17日 12:12 am

ぜんぶ好き!(2006-12-08)

 今夜の BGM は、SEAMO の「Runnin’」です。
 SEAMO については、今度ちゃんとした文章を書くつもり。この人はアーティストとして、結構ちからのある人なのですが、そのことをちゃんと書いた文章を、わたしはまだ、どこでも目にしていないのですよね。今度、本気出して書きます。
で、今日のところは、軽く。
 「Runnin’」という曲は、BENNIE K と一緒に作って歌っている「a love story」という曲のカップリングです。アルバムには入っていない、シングルにだけ入っている曲。
 「a love story」もなかなか、わたしは好きなのですよね。歌詞が、かわいいと言うか……。(あ、歌詞ではなくてリリック、というんだそうですね。でも、まあ、ここは”歌詞”という言葉でゆきます。) この歌の、最後の部分の歌詞はこうです。
 『大丈夫なふりをしてる君 大丈夫じゃない君もぜんぶ好き!』
 へへ。好き! だなんてさ。
 良いなぁ。誰かを好きになることで、心の扉が開いている人を見るのは、わたしは好きです。心の扉が開いていないと、好き!だなんてさ、書けないと思うの。この部分を歌うのは、SEAMO じゃなくて、BENNIE K のほうですし、歌詞も一緒につくっているので、SEAMO だけの手柄のように言うのは、本当は間違いであるのかもしれないですけどね。でも、この歌詞、「好き!」というのは、SEAMO の言葉です。たぶん。
 「Runnin’」ですが。これは競馬の競走馬と、三十を過ぎた自分自身とをかけて歌っている歌なのですが、こういう説明だけをきくと、つまらない作品のような気もするでありましょうが、良い曲です。bkntmrgは、とても好きな曲になりました。
 本当によく出来た歌詞なんですが、わたしは好きなのは……。
 『僕は期待に応えたい ここで勝たなきゃ未来は貰えない』
 とかね。
 『やさしさはいらない 欲しいのは結果だけ』
 とかね。
 SEAMO と同じように、わたしもまた、挫折を知る、三十路を過ぎた人なので、わかるなぁと思うところが多いのだと思います。
 やさしさはいらない、だなんて、本心から思っているわけではないですね。でも、そう言いたい瞬間があります。欲しいのは結果だけ。

2006年12月17日 12:12 am

今日の夕飯(2006-10-26)

らーめん
 お気に入りのラーメン屋。カウンター席で、ラーメンとビール。

 替玉をして、腹十三分目くらいです。ついでに、高菜とにんにくを追加したりしたので、今夜は誰とも口づけ不可です。

 いま、徒歩で帰宅中。

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