好きな詩人はと訊ねられたら、まど・みちおさんや辻征夫さんや、そして黒田三郎さんの名をあげることが多いです。
 黒田さんの恋愛詩が好きです。”小さなユリ”が出てくる詩も好き。いつ読んでも良いなぁと思います。
 しかし、もしかしたらわたしが幾分かは年をとったせいかもしれません。だんだん、この『死後の世界』のことを、黒田さんのどの作品よりもよく思い出すようになりました。
 
 
 詩人が病や死と向き合う体験を経て、それを詩にしようしたとき、その作品は重くべったりとしたものになりがちです。私小説的な、どこかべたべたとした甘さを持った、観念的なものになってしまいがちです。
 実は、そのようにしか書けないというのに病や死に挑もうとするのは、詩人としては怠慢と云うべきではないのかな、というようなことをわたしは思っています。
 病や死というのは、誰もが出会う出来事です。なので、そのことの手記というのは、それがどういうものでも必ず共感されます。だけども、それは病や死が普遍なのであって、作品が普遍にまで届いているかどうかはまた別です。
 ”わたしの詩”ではなく、”みんなの詩”のところまで目指したい。詩人にはそういう視線を期待したい。というか、わたし自身に対して、そういうことを思っているのでした。
 
 
 それはそうと。
 黒田三郎さんの『死後の世界』です。
 観念的な感じはまるでなく、平易な言葉で書かれている、どこか日記の文章のような詩です。そして、描かれているのは”生活”であり、生活のなかにある”死”です。”死”がふと入り込んできている”生”です。
 
 黒田三郎さんの詩のほとんどに思うことですが、すばらしいと思うのは、この軽さです。死の影が入り込んでいる場面だというのに、この詩は重くありません。死を意識するほどの病や、そして死ということも、また、そういうものを経たあとの生というのも、重い景色になりがちです。ですが、この詩のなかの場面には、かすかな風が吹き抜けているような気配があります。また、作中にある新しい寝具のような、さらさらとしたかわいた感じもあります。
 そしてこの詩は、平易で誰もがわかる内容で、そこもすばらしいところです。
 
 そして、それらをふまえつつ一番にすばらしくて、印象深く感じるのは、この詩が、心に風景がひろがる作品だということ。
 きっと、誰もがそうではないでしょうか。主人公の見ている景色が、あなたの心にも、浮かぶのではないですか。
 がらんとした和室にひとりいて、真新しい障子に光がさしている。それを、おどろきの心で眺めている。
 わたしは、まるで本当に見たかのように、その風景を”思い出し”ます。この詩を思い出すときというのはいつも、障子の光の風景が心に思い浮かぶときです。

 鮮烈な詩です。
 
 
黒田三郎『死後の世界』